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テックなことを書く

3月17日〜3月20日の日記

ずっと寝込んでいた……3連休とは一体…… 元気になったら何が原因だったのかと、行動としてのトライを考えようね。 体調悪いと、モチベーションとかいう以前に動けないので、つねに予防する必要があって、つまり自分の調子を観察できる状態にあることが大事なのだろうなあ。

お金が欲しいならはちま速報を見ろ

http://anond.hatelabo.jp/20170314095939

をみて、俺も最近こういうこと考える。

別に自分が「わかっている」人とは思ってないけれど、「具体と抽象」の存在に気づいてしまってからは、どうしてこの人たちはずっと具体のレベルでグチグチ言ってるのだろうとか思うことがある。 自分が楽しいと感じることって、いままで知らなかったことを知ることや、あるいは既知のことに新しい解釈を与えてくれることだったりする。 だからそういったコンテンツをすすんで取り入れるようになっているのだけれど、これらのコンテンツの拡散力がとても弱い。 どう考えても、ゲス乙女の女遊びの話や、朝ドラ女優が出家するとかいう話の数倍は面白いしと思うのだけれど、その拡散力は絶望的なものだ。

これはSNSがいじめエンターテイメントの舞台になってしまっているからで、結局「あいつウザい!」「わかるわかる」だけ言って空虚な共感と承認を得る「社会的な」人間が民主主義においては強い力も持ちすぎてるってことだろうなあ。

俺たちが幸せになるためには、マジョリティに媚びるしかないのか? 少なくとも「お金」をひとつの幸福度の基準とするなら、圧倒的に媚びるものの勝利だろう。知的であろうとか、わかる人がわかればいいとかいった美意識を取っ払って、お金を稼ぐことは手段であると毅然とした態度を示したうえで、媚びまくるしかないのだろうか。

民主主義の源流はなんなのかとか、どう発展してきたのかとか勉強したいな。

絶望の世界の対極をなすアートの世界について

僕たちは言葉に支配されすぎているのかもしれない。

インターネットはたくさんの人が発信する大量の文字のチャネルとなり、世界の裏側でなにが起こっているかということを共有することのできる時代なのだけれど、そこで得られるものはあくまでも文字や言葉の域を出ずに、視覚とか聴覚とか、ハートで感じられるストーリーまでは届けられてないのかもしれない。 身近な例で言うと、「愛してる」と言葉によって愛を伝えたり、言葉によって自分の主張を通すことは果たして本質なのだろうかと思う。

僕たちはなにかを主張するときの武器としての言葉に辟易としている。 なんかこう、僕たちはある種大人になるために失ってしまった知性みたいなものを思い出さなきゃいけないのかもしれない。

アートとはその背景に目には見えないけれど、なにか大切なものを語ってくれているのだと思う。 非言語っていうのは、言語化出来ない、なにか大切なものであって、それを見ることができている人たちの世界があるんだと思う。

でもそういった人たちは、もちろん言語のちからを用いて僕たちのための入り口を用意はしてくれない。 僕たちは、自らアートすることで唯一絶望から逃れられる世界に存在することができるのかもしれないな、とか考えた。